豊川海軍工廠は、海軍の航空機や艦船などが装備する機銃とその弾丸の主力生産工場として、昭和14(1939)年に開庁した巨大兵器工場で、
日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在です。当初は機銃部と火工部の二つの造修部門でしたが、
戦局の拡大と呼応し昭和16(1941)年に光学部、18(1943)年に指揮兵器部、19(1944)年に器材部が新設され規模を拡大していきました。
昭和18年には豊川市が誕生しますが、これは海軍工廠建設による人口増や旧町村の結びつきが強まったことを要因とするものであり、
また20(1945)年8月7日の空襲では2,500人以上が犠牲となり多大な被害を出すなど、豊川海軍工廠は豊川市の近代史を理解する上でも欠くことのできない歴史的事象です。
(豊川市WEBサイトより引用)
昭和20年8月7日の空襲により工廠は壊滅しました。空襲の犠牲者の中には学徒動員された4名の立命館大学学生がいました。空襲当時の状況と犠牲者のその後については、総務省のWEBサイトに記述があります。
終戦を迎えた8月15日にも豊川海軍工廠内では戦没者の遺体収容作業が続行されていた。遺体は遺族に引渡されず、市内の千両町と諏訪町の山林に急造された海軍墓地に20~30体ずつ纏めて仮埋葬された。
また、豊川閣(豊川稲荷・妙厳寺)では、寺内の最祥殿に遺骨箱を安置し、朝夕の読経慰痍行事が行われ、その後四十九日の法要が営まれた。
昭和20(1945)年10月、豊川閣裏(現 豊川市緑町)の広場では、豊川海軍工廠従業員報国団が全国より浄財を集めて戦没者供養塔建立の準備が進められ、翌年の9月23日供養塔竣工除幕式を行った。
以後8月7日の命日にはここで慰霊祭が行われた。しかし、2か所の海軍墓地は戦後の混乱により管理者もなく、また工廠幹部職員も生活に追われて戦没者を顧みる余裕はなく、供養は遺族や同僚達によりそれぞれに行われていた。
もうすぐ七回忌を迎えようとする昭和26(1951)年、呉地方復員残務処理部が主となり、愛知県民生部と豊川市役所が協力して海軍墓地の遺体を発掘し、遺骨を命日まで渡されることになった。
作業は6月1日に始まり、81か所の墓地から2,385柱の遺骨が収容され、遺友会合同慰霊祭後遺族に渡されたが、引き取り手のない200柱の遺骨は、呉の海軍共同墓地に葬られた。
(総務省WEBサイト『豊川市における戦災の状況(愛知県)』より引用)
遺体が発掘されたあとの千両・諏訪の両墓地には、後に数々の慰霊碑が建立されることになりました。
立命館大学慰霊碑は、前述の4名の犠牲者の慰霊の為に、昭和51年に諏訪墓地内に建てられました。慰霊碑の背面には末川名誉総長の追悼文が刻まれています。
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末川名誉総長の追悼文